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(中根英登:コトバイウ) あばうと

未来について。

 
 
 
 
 
常識、という言葉があります。
 
本来は
正しいこと、イコール、常識、
で問題ないと思います。
 
一方で、
常識を疑え
という警鐘も存在します。
 
新しいアイディアを出す時とか、
時代が変わって常識がそぐわなくなった時とか。
 
ただ、確かに
常識が違ったことに気づく時って
ぞくぞくっとする興奮もありますよね。
 
今日は、そんなお話。
 
教科書が間違えていると知ったら
あなたはどう思いますか。
 
困る。
そのあたりが多そうな反応だと思います。
 
でも、筋道立てて考えれば
誰でも分かりそうなものなのに
先生も全員、生徒も全員、
見なかったことにしている、
気づいていないことにしている、
ということに気づいた時、
あなたはどう感じるでしょうか。
 
もし気づいているのが
あなただけだったら。
 
宇宙の中で
ひとりだけ取り残されたような
ふわふわとした気持ちに
なることすらあります。
 
さあ
本題です。
 
英語で
willは未来、「だろう」という意味だと習いましたね。
 
変ではないですか。
 
だって、
国語では
「だろう」は推量と学びます。
推量とは、確かでないことをおしはかる、という意味。
 
英語と国語で
教えていることが違うんです。
「だろう」は
英語では未来の意味。
国語では推量の意味。
 
もっとも
細かく見れば
もうちょっと込み入っているのですが。
 
中学の国語の教科書を読みますと
「だろう」は
断定の助動詞「だ」の未然形「だろ」に
推量の助動詞「う」がくっついたもの
と解釈できます。
教科書に載っている情報を組み合わせることによって。
 
すなわち
国語の教科書で
「だろう」そのものについての解釈は載っていないのです。
英語で学んだ
「だろう」=未来
が正しい意味として刷り込まれているわけなのですね。
 
さて。
 
私がこの疑問に気づいたきっかけは
キリスト教新約聖書
ギリシア語から翻訳していた時です。
 
聖書の日本人研究家の多くの方々が
聖書における未来の翻訳のしかたはおかしい
と言っていることを知ったのですね。
 
「神様にお祈りをすれば、神様はあなたに報いるだろう。」
 
こういう、神様が主語の場合なのですけど。
神様はすべてを決めているのだから
神様が推量として言うことそのものがおかしいと。
それはまあ、たしかに。
推量で表現すると
神様が、未来のことははっきりしないと言っているようなもので。
新約聖書」の「約」は「約束」のことなので
そんなあいまいな約束をされても困る、と。
 
それは、まあ、たしかにそうですよね。
 
もし社長さんがあなたに
あなたの給料は時給1000円だろう。
と言われたら、
はっきりしてください、本当はいくらなのですか、
と言いたくなりますよね。
 
1ヶ月ぐらい
ずっと考えていまして。
そこで気づいたのです。
ギリシア語の未来は
「だろう」ではなく、
「することとする」とすれば
筋が通る、と。
 
「神様にお祈りをすれば、神様はあなたに報いるだろう。」
ではなく、
「神様にお祈りをすれば、神様はあなたに報いることとする。」
である、と。
 
そして
最初のうちは
文脈に応じて
「だろう」と「することとする」を使い分けていたのですが、
だんだんと、
ギリシア語で話している人は全員
「することとする」
のつもりで話していることに気づいてきまして。
エスも、まわりの人々も、全員が、未来のことに関して
「することとする」
の意味で使っている、と。
 
すると、
英語に関しても
あれ?
と思い始めてきたわけです。
 
英語に関して
英文法を詳しく勉強すると
willは
単純未来「だろう」
意志未来「するつもりである」
の2種類の意味がある
ことが分かります。
英和辞典に2種類の意味が載っていて
状況に応じて
訳し分けるべきである、と。
 
例文を見ると
訳し分ける必要は
本当はなかったのではないか、と。
 
意志未来の例文として
I will bet you $5 he won't come.
「彼が来ない方に5ドル賭けるつもりです。」
と載っていますが、同じ辞書で、単純未来の例文として
I will graduate next year.
「私は来年卒業するでしょう。」
とあります。
この訳し方でもダメではないですが、意志未来として
「私は来年卒業するつもりです。」
と訳しても、まったく問題がないわけです。
いやむしろ、
意志未来の方が自然とすら言えます。
なぜって、自分の卒業のことですよ。
自分の卒業という大事なことを
推量でいうなんて
よっぽど自分に自信がなさすぎるんじゃ。
 
あ。
 
日本人は
知らず知らずのうちに
そういうふうに
自己規定してきてしまったのではないか。
 
日本人にとって
未来のことは
すべて推量なんです。
よくわからない、不確定なこと。
 
それに対して
アメリカ人にとって
未来のことは
すべてはっきりしていること。
なぜって、自分で決めるから。
未来は自分の意志で決めることだから。
 
そうか。
 
日本人は
自分で決めることをしないから
未来のことが推量でも
違和感を感じることがなかったんだ。
 
これって
恐ろしくないですか。
自覚のないまま
この時代まで来てしまったわけです。
 
なぜこんなことに。
 
いろいろ
想像してしまいます。
 
アメリカが決めて、
日本は、よく分からないままそれに従う。
そういう構造的な役割の違いの反映である、とか。
 
あるいは、
日本人は農耕民族で
不定期な災害が多発する国なので
未来のことを推量として考えることに親和性がある、とか。
 
言葉が自分の考えを決める。
おそろしいことです。
無自覚だから、なおさら。
 
だから。
自覚的でありましょう、と。
 
それだけでも
だいぶ自由になれると思うんですよね。
 
自分の使っている言葉を
当たり前と考えない。
自分の使った言葉に
もやもやとした違和感を持ったら
もっといい表現はないか、
もっとフィットする表現はないか、
できるだけねばってみる。
もしジャストフィットする言葉を
ぴったりする言葉を
見つけることができたら
それはとてもしあわせなことだと思うんです。
 
言葉は
自分を縛りもするし、自由にもする。
もしかしたら
言葉が
自分を不幸にしていたり、幸せにしていたりする
のかもしれない。
 
それを
ずっと探しているんだと思うんです。
ぼくは。
 
ではおさらい。
 
ギリシア人は
未来に関して、
「することとする」と、
決めたこととして考える。
決定未来。
 
アメリカ人は
未来に関して、
「するつもりである」と、
自分のこととして考える。
意志未来。
 
日本人は
未来に関して、
「するだろう」と、
曖昧なこととして考える。
ともすれば、
自分とは関係のないことと考えかねない。
推量未来。
 
未来に対する
世界観が
関わり方が
言語によって
まったく違うんです。
 
文法からも
民族分析できるんですねえ。
たしかに
民族の定義って
ギリシア語、英語、日本語のような
言語の違いによって分けることが
基本になっているものなあ。
 
そして、ここを強調したいのですが。
「することとする」
「するつもりである」
「するだろう」
すべて分けて表現できるんですよ、
日本語は。
 
あなたにとって
未来とは
よく分からないものですか。
それとも
自分自身で作るものですか。
それとも
すべて決めることのできるものですか。
 
無自覚ならば
選ぶことすらできません。
未来は
思い通りにならない
理不尽ですらある存在です。
 
でも自覚さえしていれば
ちゃんと選べるのです。
未来のことさえも。
選ぶだけじゃない。
作ることだって、
決めることだってできます。
 
日本語って
ものすごく豊かな言語なんですよ。
未開拓なだけで。
ひょっとしたら
世界で最も表現範囲の広い言語なのかも。
そうなのだとしたら、
使わない手はないですよね。
 
ここにフロンティアがありました。
あなたも一緒に
開拓してみませんか。
 
 
 
 
 
 * * * * *
 
本文中に書いた
「神様にお祈りをすれば、神様はあなたに報いるだろう。」
という一文は、
以下の箇所を元にしています。
聖書のような
神様が残した文は
元の文章を
一言一句変えません。
表現を変えたならば、人間側で変えたと明記しないとまずいですね。
新約聖書においては
ギリシア語で書かれた原文が大事なんです。
 
新約聖書『マタイによる福音書』6章6節
Mt.06:06.〈練語版〉 あなたが祈る時には、自分の奧まった部屋に入り、自分の戸を閉じて、ひそかなところにいるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、ひそかに見ているあなたの父が、あなたに報いるだろう。
Mt.06:06.〈逐語版〉 その上で、あなたがわざわざ祈ろうとさせられる時にはいつであれ、あなたの奧まった部屋の中へあなたが入りなさいとなっています。そして、あなたの戸をあなたが閉じることになっていて、あなたの御父に、ひそかなところの中で見ているお方に、あなたが自分自身でわざわざ祈りなさいとなっています。そして、あなたの御父が、ひそかなところの中で見ているお方が、あなたに報いることとします。
Mt.06:06.〈Improved〉 But whenever you may pray, enter into your inner room, and shutting your door, pray to your Father who is in hiding, and your Father, who sees in hiding, will pay you.
Mt.06:06.〈Ελληνική〉 σὺ δὲ ὅταν προσεύχῃ, εἴσελθε εἰς τὸ ταμεῖόν σου καὶ κλείσας τὴν θύραν σου πρόσευξαι τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ• καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ ἀποδώσει σοι.
 
(『・新約聖書【真理発見訳】New Testament [Truth Discovery Version]』より)
http://shinyakuseisho.com/archives/1182
 
 
 
 
 

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cotobatsumugi @ NAKANE Hideto(`・ω・´)